鏡の智道 釈氏憲法 第五条
講者は當に四部を講すべし。
僧俗、儀學の紛れ無く、三諦を講にし在を出に兼ねて
住まること無からしめよ。十界を講って三悪を厭い、
三善を慕い、二賢を好み、二聖を求めしむるに、四恩を講にす。
父母を宗み、王者を敬い、人倫に勤み、三寶に歸せしめ。
五善を講って善品を盡し、科悪を絶しめ、
五心を講って性の理を曉らし、國に住まることを教え成せ。
是れ聖者の化を布す方なり。
或は己執を講え為して、諸佛の化き教えに通わしめず
恐らくは佛道をして、小徑と作すは檀越をして罪人と作らしむ。
こうしゃはまさにしぶをときあかすべし。
そうぞく、ぎがくのまぎれなく、さんたいをあきらかにしざいけをしゅっけにかねて
とどまることなからしめよ。じっかいをならってさんあくをいとい、
さんぜんをしたい、にけんをこのみ、にせいをもとめしむるに、しおんをあきらかにす。
ちちははをとうとみ、みかどをうやまい、ひとのみちにはげみ、さんぼうにきせしめ。
ごぜんをならってぜんぽんをつくし、もろあくをたたしめ、
ごしんをならってもちまえのりをさとらし、くににとどまることをおしえなせ。
これぼさつのおしえをほどこすみちなり。
あるいはこしゅうをおしえなして、しょぶつのみちびきおしえにかよわしめず
おそらくはぶつどうをして、こみちとなすはだんのつをしてつみびととならしむ。
講をなすものは四部(僧、尼、信男、信女)を講じ
僧俗をして戒律の義と、定慧の学とのもめごとをなくし、三諦(空、仮、中)を講じ、
在家、出家、兼住との間を彷徨させないようにし、
十界を講じ、三悪(地獄、餓鬼、畜生)をいとい、
三善(修羅、人間、天上)を慕い、二賢(声聞、縁覚)を好み、二聖(菩薩、仏)を求め、四恩を講じ、
父母を尊び、王者を敬い、人倫をつとめて三宝に帰依させ、
五善を講じ、善を尽くして悪を絶たしめ、
五心を講じ、性理をさとらせて円成性得の境界に住まわすのである。
これは聖者が教化を行う方法である。
己が執着する道理にまかせて説くならば、これは仏に通ずる大道の教えではない。
恐らくは、仏道をして厄介な小径とし、檀越(だんおち)をして不義の罪人とするだろう。
このように、太子は厳しい戒律をおっしゃっています。
鎌倉時代に浄土真宗を開いた親鸞は、「在家のままでよい。妻帯も佳し。私の念仏は私のために唱えるもので、先祖供養のために南無阿弥陀仏とは唱えるものではない」と語って、宗教団体を作ることをしませんでした。
親鸞が結婚した事実は、世人を驚かせたと言われますが、その前例はすでにありました。天台大僧都法印大和尚、藤原澄憲。比叡山で修行して二十六歳で山を降り、京都の北大路に住んで結婚。九男一女をもうけました。この澄憲法印の三男・聖覚は親鸞の友人で、浄土宗の開祖・法然上人への弟子入りの仲介をしたそうです。
親鸞から数えて八代目の蓮如はまさに怪僧、傑僧でした。五人の女性を愛し、大勢の子が生まれました。世は戦国時代。人の集まりを、徒党を組むものとみなして制圧が激しかった時代に、宗教講話のための「講」という組織を作り、浄土真宗の大教団を着々と作りあげていったのでした。
こうした仏教界と世俗の流れは自然の形かもしれませんが、条文にある基本精神については、いつも想うことが大切と感じます。
- 親 鸞
- 平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて活躍した僧。法然の下で学び、後に浄土真宗の開祖となる。他力本願、悪人正機説を唱え、肉食妻帯も往生の妨げにならないとして自ら実践した。一一七三~一二六二年。
- 法 然
- 平安時代末期の僧で浄土宗の開祖。念仏の信仰に到達して浄土宗を開いたが、そのために旧仏教から敵視され、一時は四国へ配流された。一一三三~一二一二年。
- 蓮 如
- 室町時代中期の浄土真宗の僧。北陸方面を中心に教化活動を展開。特に農民層の支持を集めた。晩年、大阪に石山本願寺を営んだ。一四一五~一四九九年。